はじめに――「さぶ」という小説が問いかけるもの
「おら、思うんだが」
この口癖ひとつで、読む者の心をつかんでしまう登場人物がいます。山本周五郎の長編小説『さぶ』に登場する、表具師の見習い・さぶです。ぐずでのろまで、何をやっても器用にこなせない。それなのに不思議と憎めない。むしろ読み進めるうちに、このさぶという人間の深さに、読者は静かに打ちのめされていきます。
1963年(昭和38年)に「週刊朝日」に連載され、その後も長く読み継がれてきた本作は、江戸時代の表具師(ひょうぐし)を主人公にした人情小説です。しかし単なる時代小説の枠に収まらない普遍的なテーマ――友情、人間の弱さ、社会の不条理、そして魂の成長――が随所に息づいており、現代を生きる私たちにも強く響く作品となっています。
この記事では、『さぶ』のあらすじと見どころを詳しく紹介しながら、なぜこの作品が今もなお多くの人の心を動かし続けるのかを考えていきます。
作者・山本周五郎について
山本周五郎(1903〜1967)は、静岡県出身の日本を代表する時代小説作家です。本名は清水三十六(しみず さとむ)。青年期に東京の横浜木材に奉公に出た経験が、生涯にわたって市井の人々への深い共感を生む原点となりました。
代表作には『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『五辨の椿』などがあります。いずれも身分の低い人間、虐げられた者、世間から外れた者へのまなざしが温かく、同時に鋭い。大きな賞を辞退したことでも知られ、作家としての矜持(きょうじ)を最後まで貫きました。
『さぶ』は、そんな山本周五郎の作風が最もよく表れた作品のひとつといえます。
あらすじ――二人の少年から始まる物語
出会いと青春
物語は江戸時代。小舟町(こぶなちょう)にある「芳古堂(ほうこどう)」という表具屋・経師屋(きょうじや)に奉公している、十五歳の少年二人から始まります。
栄二(えいじ)は利かぬ気の強さと賢さを顔に浮かべた、痩せた少年。一方のさぶは、ずんぐりとして頭が丸く、ぐずでのろまと言われ続ける少年です。対照的な二人ですが、長屋に寝床を並べ、同じ釜の飯を食い、気がつけば切っても切れない親友同士になっていました。
雨の日、さぶが店をとびだして両国橋を泣きながら渡るのを、栄二が追いかけ引き戻す場面から物語は幕を開けます。この冒頭の一場面に、二人の関係のすべてが凝縮されています。
二人の成長と日常
年を重ね、二十歳になった二人は初めて外で酒を飲む許しを得ます。芳古堂は格式ある店で、職人たちへのしつけも厳しく、読み書きから生け花・茶の湯まで習わされるような環境でした。栄二はみるみる腕を上げ、一流の職人への道を歩んでいく。さぶは相変わらず糊(のり)の仕込みしかできない。しかしその糊の腕は誰にも負けなかったのです。
行きつけの小料理屋「すみよし」で出会う女・おのぶ(のぶ)の存在も、物語に彩りを添えます。さぶはおのぶに淡い恋心を抱き、栄二は綿文(わたぶん)という両替商の中働き・おすえに心を寄せていました。
転落――無実の罪
やがて事件が起こります。栄二が出仕事をしていた得意先・綿文の客座敷に飾られていた、古代箔白地金襴の切れ(百両もの値がつく名物)が、栄二の道具袋の中から発見されたのです。
身に覚えのない栄二は必死に訴えますが、誰も信じてくれません。長年奉公した芳古堂の親方からも、浅草の兄弟子・和助からも、実質的に「盗人」として扱われてしまう。
傷ついた栄二は怒りのまま飲み歩き、ついに綿文の店先で酔いつぶれ、火消しの若者たちに引きずり出され、ボコボコにされたあげく、目明し(おかっぴき)の手で番小屋に連行されます。そして北町奉行所の仮牢を経て、石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」へ送られることになるのです。
物語の核心――石川島での魂の変革
人足寄場という場所
石川島の人足寄場は、現代でいえば更生施設・職業訓練所のような場所です。無宿人や犯罪者予備軍とみなされた者を収容し、手に職をつけさせ、賃銀を与えて社会復帰を促す。「牢ではない」という建前のもとに運営されていました。
栄二はここで固く心を閉ざします。世間ぜんたいが敵だ、と。誰の言葉も受けつけず、名さえ名乗らず、ただ怒りと憎しみを抱いて日々をやり過ごします。
しかしそんな栄二を取り巻く人々が、少しずつ彼の心を動かしていきます。
与平という男の存在
差配(さはい)役の松田権蔵(通称・赤鬼)の怒鳴り声の奥にある不器用な優しさ。元締同心・岡安喜兵衛の辛抱強い眼差し。そして何より、年老いた人足・与平のまなざしです。
女房を殺そうとして寄場に送られた与平は、悲しい過去を持ちながらも穏やかで、栄二に対してまるで父親のように世話を焼きます。「人間は一人ぼっちじゃあない」という与平の言葉は、栄二の固い殻に小さな亀裂を入れます。
石垣崩れと救出の場面
転機となるのは、石垣の修理中に起きた事故です。崩れた石垣の下敷きになった栄二は、身動きもできないまま、あがってくる潮に溺れかけます。絶体絶命の瞬間、栄二の口から思わず飛び出した言葉は「助けてくれ、さぶ」でした。
そしてそのとき、寄場の仲間たちが必死で石を取り除いていくのです。赤鬼の松田が、与平が、油絞りの清七が、万吉が。顔ぶれを知る者なら、胸が熱くならずにはいられない場面です。
この体験を経て、栄二の心は少しずつほぐれていきます。世間に大きな借りができた。この人たちに何かを返さずにここを出るわけにはいかない、と。
義一という悪役との対決
やがて人足寄場に、やまっかがし(山の毒蛇)と名乗る義一という男が現れます。花札博打を持ち込み、寄場の秩序を乱す危険な男。役人さえ金で抱き込み、長屋の中を「鉄火場」にしてしまうのです。
そして栄二は、沈黙を破って義一と対決します。片足が不自由なうえに、手には撞木杖(しゅもくづえ)しかない。それでも栄二は、寄場の仲間を守るために一人で立ち向かうのです。
この場面の緊張感と、栄二の成長を感じさせる行動の変化は、物語のクライマックスのひとつといえるでしょう。
帰還と再出発――人間として生まれ変わった栄二
寄場を出た栄二は、さぶと二人で下谷坂本二丁目に小さな表具屋を開きます。仕事はなかなかうまくいかない。おすえは隣の人のために賃仕事を引き受け、さぶはどこかで日雇いをして密かに駄賃をおすえに渡している。栄二はそれをわかりながら、自分の不甲斐なさに歯がみします。
しかしそんな時、すみよしのおのぶの縁で、相州江ノ島から本格的な絵襖の仕事が舞い込みます。ようやく本物の仕事にありつけた瞬間です。
最大の謎の解明――金襴の切の真相
物語終盤、衝撃の真実が明らかになります。
栄二の道具袋に金襴の切を入れたのは、さぶでも綿文の誰かでもありませんでした。おすえだったのです。
綿文のお嬢さんたちに栄二を取られてしまうかもしれない、という恐怖と嫉妬から、おすえは栄二が綿文へ出入りできなくなるよう、あの切れを袋に入れた。そして一生、誰にも言わないつもりでいた。栄二への愛情の深さが招いた、取り返しのつかない間違いでした。
「ごめんなさい」「追い出さないでね」と泣き崩れるおすえを、栄二は両手でそっと抱きます。
「おれは島へ送られてよかったと思ってる」
この言葉が、栄二の成長を示す何よりの証となります。
さぶというキャラクターの深み
この作品の題名は「さぶ」です。しかし物語の語り手はあくまで栄二であり、さぶはどちらかといえば脇役です。それでも題名がさぶなのは、なぜでしょうか。
さぶは確かにぐずです。口下手で、仕事は遅く、恋愛にも不器用。おのぶへの気持ちは伝わらず、おせいという娘が自分に惚れていても気づかない。栄二がいなければ何もできないと自分では思っている。
しかしこの小説を読み終えると、「さぶこそが本当の主人公ではないか」という気持ちがわいてくるのです。
栄二が無実の罪で島送りになったとき、さぶは芳古堂を暇を出されるほど足しげく見舞いに通いました。一生かかっても罪のつぐないをすると、糊瓶の蓋の裏に刻んで。それは、自分のそばにいながら栄二の不幸を防げなかったという、さぶなりの深い責任感と誠実さの表れでした。
どんな賞賛も求めず、ただそこにいる。栄二のそばで黙って糊を仕込み続ける。それがさぶという人間なのです。
与平は言いました。「世間にたてられ、うやまわれていく者には、陰にみなさぶちゃんのような人間が付いている」と。この一言が、物語のすべてを言い表しています。
『さぶ』から学ぶこと
人間の一生は一枚の布切れで左右されてはならない
栄二は寄場で気づきます。「人間の一生は、一枚の金襴の切などでめちゃめちゃにされてはならない」と。理不尽な出来事は確かに起こる。しかしそれに魂まで奪われてはいけない、という覚悟が、栄二を再び立ち上がらせるのです。
友情とは何か
さぶと栄二の関係は、美しい言葉で語られるようなものではありません。どなったり、じれったがったり、ぶっきらぼうだったりする。それでも根っこにある信頼は揺るがない。友情とは語るものではなく、そのようにそこにあるものだ、と本作は教えてくれます。
陰で支える人の偉大さ
栄二は腕のある職人として認められるようになります。しかしその陰には、さぶの仕込む糊があり、おすえの支えがあり、おのぶの縁がある。世間から見えない場所で誰かを支える人間の存在が、どれほど大きいかを本作はそっと、しかし確かに伝えます。
読んでほしい人、読むタイミング
『さぶ』は、以下のような人に特にお勧めしたい一冊です。
人間関係に疲れを感じているとき、誰かへの不満や怒りを抱えているとき、自分が評価されないと感じているとき。そんなときにこそ、この物語の栄二のように、少しだけ周りを見渡してみることができるかもしれません。
また、時代小説が初めてという方にもお勧めです。難しい歴史知識は不要で、人と人とのやりとりを中心に物語が展開するため、するすると読み進められます。
おわりに
『さぶ』は、人間の弱さと強さ、友情と愛情、社会の理不尽と生きることの意味を、江戸の市井の風景の中に丁寧に織り込んだ傑作です。
物語の最後、長屋の雨戸の外から聞こえるさぶの声が印象的です。「おらだよ、さぶだよ」と叫ぶその声に、栄二は即座に雨戸を開けるでしょう。言葉は多くない。ただ、そこにいる。それが二人の友情のすべてです。
山本周五郎が描いたこの世界は、読み終えたあとも静かに胸の中に残り続けます。ぜひ手に取ってみてください。


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