はじめに
今回は太宰治の『ダス・ゲマイネ』を解説します。 太宰治の第一創作集『晩年』に収められている本作は、「当時、私には一日一日が晩年であった」という非常に印象的で有名な書き出しで始まります 。タイトルに用いられている「ダス・ゲマイネ(Das Gemeine)」とは、ドイツ語で「通俗性」「卑俗なもの」を意味する言葉です。
本作は、青春時代特有の自意識過剰や、何者かになりたいという焦燥感、そして自己という存在の不確かさを、ユーモアと残酷さを交えて描いた傑作です。本記事では、この『ダス・ゲマイネ』の詳しいあらすじ、作品の根底に流れるテーマ、そしてメタフィクションとしての深い解釈を、わかりやすく徹底解説していきます。
1. 『ダス・ゲマイネ』の詳しいあらすじ
本作のストーリーは、主人公である「私」を中心に、個性豊かでどこか滑稽な若者たちの交流と崩壊を描いています。
起:奇妙な出会いと「私」の憂鬱
物語の主人公である「私」は、25歳の学生です 。彼は行き場のない恋に破れ、日々を虚無感の中で過ごしていました 。「私」は、上野公園内の清水寺の近くにある、赤い毛氈(もうせん)を敷いた縁台がある甘酒屋へ通うようになります 。そこには「菊ちゃん」という名の、17歳の利発そうな小柄な女の子が働いていました 。
ある春の日、「私」はこの甘酒屋で異様な風体をした男、馬場数馬と出会います 。馬場は音楽学校に8年も在籍しながら一度も試験を受けたことがないという奇妙な男で、天鵞絨(ビロード)とボタンがむやみに多い銀鼠色の外套を着ていました 。さらに、シューベルトに化け損ねた狐のような顔つきで、無精髭を生やしています 。「私」は馬場の放つ不思議な魅力や冗談に惹きつけられ、親交を深めていきます 。
承:同人雑誌「海賊(ル・ピラート)」の結成
夏休みに入り、実家の青森に帰っていた「私」のもとに、馬場から手紙が届きます 。そこには、「海賊(Le Pirate)」という名のフランス向け輸出用雑誌を創刊しようという壮大な誘いが書かれていました 。300円あれば素晴らしい本ができるという空想的な計算に基づいた計画です 。
休暇が明けて上京すると、馬場の熱意はさらに高まっており、仲間として東京美術学校の生徒である佐竹六郎を紹介されます 。さらには、作中のキャラクターとして「太宰治」という名の売れない作家もこのグループに巻き込まれていきます。彼らは夜な夜な集まっては、海外の芸術家を引き合いに出しながら、熱っぽく、しかしどこか空虚な芸術論を戦わせるようになります。
転:交錯する若者たちの自意識
物語が進むにつれ、登場人物たちは互いに影響を与え合いながらも、それぞれの抱える「虚勢」や「弱さ」を露呈していきます。馬場は自らを天才と称しながらも、ヴァイオリンケースには何も入っておらず 、実際には何も生み出していない自分に苛立ちを抱えています。 馬場は甘酒屋の菊ちゃんについて、「鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判る」という冗談を真顔で教えた際、彼女がそれを完全に信じ切って見つめてきたエピソードを語ります 。馬場はそんな菊ちゃんの純粋な信仰に感嘆しつつも、自らの知性や自意識の肥大化を持て余し、「知性の極というものは、たしかにある。身の毛もよだつ無間奈落だ」と恐ろしい小説の構想を語り出します 。彼らは互いを軽蔑しながらも依存し合い、「何者かになりたい」という強い欲望と、「結局自分は凡庸(ダス・ゲマイネ)な存在にすぎないのではないか」という恐怖の間で揺れ動きます。
結:破滅とアイデンティティの喪失
物語の結末に向けて、事態は悲劇的かつ喜劇的なカオスへと雪崩れ込んでいきます。 ある雨の日、馬場は突然顔を覆って嗚咽をはじめます。「僕は泣いているのじゃないよ。うそ泣きだ。そら涙だ」と言い放ち、「僕は生れたときから死ぬるきわまで狂言をつづけ了せる。僕は幽霊だ。ああ、僕を忘れないで呉れ!」と絶望的な本音を叫びます。
その狂気じみた場からふらふらと外へ出た「私」は、雨の中で恐ろしい事実に気がつきます。「ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰が呟いた言葉じゃないか」と気づき、さらには自分の舌打ちの音までもが馬場に似てきていることを悟ります。自分が自分自身の影を失い、他者の模倣の寄せ集めに過ぎないことに気づいた「私」は、「私はいったい誰だろう」と慄然とします。そして、「私は私の影を盗まれた」という強烈な自己喪失の独白とともに、物語は唐突に幕を閉じるのです。
2. 本作の根底に流れるテーマ
『ダス・ゲマイネ』には、時代を超えて若者の心を打つ普遍的なテーマがいくつか隠されています。
「ダス・ゲマイネ(通俗性)」への嫌悪と憧れ
タイトルの「ダス・ゲマイネ」が示す通り、本作の最大のテーマは「通俗性」との葛藤です。馬場をはじめとする登場人物たちは、自分たちがその他大勢の「凡人」とは違う特別な存在(芸術家)であると信じたがっています。奇抜な服装をし、大げさな言葉を使い、海外の偉大な芸術家と対等であるかのように振る舞うのは、すべて自分が「通俗的(ゲマイネ)な存在」に堕ちることを極端に恐れているからです。 しかし、彼らが無理をして虚勢を張れば張るほど、その姿はかえって滑稽で、通俗的なものへと近づいてしまいます。太宰治は、芸術至上主義を気取る若者たちの痛々しい自意識を、皮肉と愛情を込めて描き出しているのです。
青春特有の自意識過剰と「道化」
もう一つの重要なテーマは、「道化」を通じた自己防衛です。人間は、本当の自分をさらけ出して傷つくことを恐れるあまり、時にピエロ(道化)を演じます。 馬場が初対面の「私」に対して、「はじめに逢ったひとには、ちょっとこう、いっぷう変っているように見せたくてたまらないのだ」と告白しているように 、彼らは常に他者の目を意識し、自分を演出しています。しかし、道化を演じ続けた結果、どこまでが本当の自分で、どこからが演技なのかが分からなくなってしまいます。自己を偽り続けた結果としての「アイデンティティの崩壊」が、本作の底流には流れています。
3. 『ダス・ゲマイネ』の深い解釈と考察
あらすじとテーマを踏まえた上で、本作をさらに深く解釈してみましょう。
登場人物たちはすべて太宰治の「分身」である
文学的な解釈として最も有力なのは、作中に登場する「私(佐野)」「馬場」「佐竹」、そして「太宰」という四人の若者は、すべて現実の作者である太宰治自身の内面を分割した「分身(ドッペルゲンガー)」であるという見方です。
- 私(佐野次郎左衛門):周囲に流されやすく、無気力で空虚な「傍観者」としての側面。
- 馬場数馬:才能への強烈な渇望を持ち、虚勢を張り続ける「芸術家気取り」の側面。
- 佐竹六郎:物事を斜に構えて冷笑的に見る「ニヒリスト」としての側面。
- 太宰治(作中の人物):自己嫌悪にまみれ、破滅的な行動をとる「現実の泥臭い」側面。 このように考えると、彼らが夜な夜な集まって激論を交わす場面は、実は太宰治という一人の人間の脳内で繰り広げられている「自己内対話」であると読むことができます。異なる自意識がぶつかり合い、最終的に統合不全を起こしてしまう過程を描いているのです。
「私は私の影を盗まれた」が意味するもの
結末における「私」の「私は私の影を盗まれた」という独白は、日本近代文学の中でも屈指の名文句です。この言葉は、強烈な他者(あるいは自分の中の別の自意識)に影響されすぎた結果、オリジナルであるはずの「本当の自分(影)」が消滅してしまったという恐怖を表しています。
人間は誰しも、多かれ少なかれ他者の影響を受けて生きています。親しい友人の口癖がうつったり、尊敬する人の態度を真似したりすることは日常的に起こります。しかし、「私」の場合はそれが極限まで達し、自分の内面が完全に他者(馬場や佐竹や太宰)に乗っ取られてしまいました。これは、「絶対的な自己」などというものは存在せず、人間の自我とは他者の模倣の寄せ集めに過ぎないという、非常に現代的で実存主義的な不安を表現していると解釈できます。
先進的なメタフィクション構造
本作のもう一つの驚くべき点は、作者である「太宰治」自身が、情けないキャラクターとして作中に登場するという「メタフィクション」の構造を持っていることです。1930年代の日本文学において、このような手法を取り入れたことは極めて先進的でした。作者が自らを物語の登場人物として引きずり下ろし、他のキャラクターから嘲笑される対象として描くことで、太宰は「私小説」という日本特有の文学形式をパロディ化し、同時に自らの恥部をさらけ出すことによる「自己浄化」を図っていたと考えられます。
おわりに
太宰治の『ダス・ゲマイネ』は、一見すると若者たちの取り留めもない青春群像劇のように見えますが、その根底には「自己とは何か」「表現するとはどういうことか」という、非常に深く恐ろしい問いが潜んでいます。
「一日一日が晩年」と感じるような若き日の虚無感や、何者かになりたいと背伸びをしてしまう自意識過剰な態度は、現代を生きる私たちにとっても決して無縁なものではありません。「私は私の影を盗まれた」という恐怖に共感できる人であれば、本作は一生忘れられない特別な一冊になるはずです。
ぜひこの機会に、太宰治の『ダス・ゲマイネ』を実際に手に取り、彼らの滑稽で切実な狂言の果てを見届けてみてください。この記事が、皆さんの読書のきっかけや、深い作品理解の一助となれば幸いです。



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